北尾トロ「男の隠れ家…」を読んで

大学に行ったり、就職したりしてどこか知らない街で暮らし始める。
学校や会社という組織の一員であることを離れてしまえば、回りの誰も自分のことを知らない場所。

家族、子供、友達…、もちろん今の自分にとってとても大切なものだ。
もちろん××会社の○○という肩書き抜きに、今の自分を語ることは出来ない。

むかしえらい哲学者様はこういった。
「人間は社会的諸関係の総体である」と。

確かに会社に行けば肩書きがモノを言うし、家族の中では父であり夫であり、母から見れば不肖の息子、子供の友達からすれば××ちゃんのお父さん…。
私たちは、その都度関係から規定される諸断面の寄せ集め出しかないように感じる。
その中で、人は都度それぞれの役割を演じ続ける。
人によってはとても器用に、人によってはとても不細工に周囲に嫌悪を振りまきながら。
そんなことは当たり前のことで、疑問に思う人は少ない。
「全ての関係性を断ち切ったところで、最後に残る自分って一体なに?」などと普通の人は考えない。

ラジオ番組で紹介されていた「男の隠れ家を持ってみた」という本を読む。
200ページの小冊子なので一気に読み終わる。

著者は北尾トロというフリーライター。
仕事は順調で、長く暮らしている西荻窪では北尾トロのペンネームで通っていて、家族くらいしか本名を知らないという。
西荻では、ペンネームを使い、フリーライターのトロさんとして振舞うことになれきってしまっている。

そんなトロさんが、自分のことをまったく知らない街で、一人暮らしを始めたら何が起こるのか?
俗な言葉で言えば、50歳をまえに「自分探し」をやってみようと始めたのが、西日暮里にアパートを借りて「男の隠れ家を持ってみる」ことだった。

といっても、仕事や家族(つまりトロさんの社会的諸関係)から完全に途絶してしまった、つまり西日暮里という知らない街にトロさんが人知れず<出奔>してしまったわけではない。

西荻(トロで生きる世界)と西日暮里(本名で生きる世界)の二重生活を行き来しながら、それぞれの立場や視点から互いに別の世界を眺めてみようという趣向で、小生から見るととても余裕のある実験レポートに感じる。
しかもそこで見聞きしたこと感じたことを、トロの世界に戻って雑誌に連載している。

新しい世界には、とうぜん期待も不安もある。
奥さんは、「女でも出来たの?」などと至極当然なことを聞く。
「隠れ家」を持ったところで、飲めない酒を無理に飲んで路上に嘔吐するとか、風呂のないアパートの水道で頭を洗うとか、ほのかな期待を抱いて知らないスナックに飛び込むとか、他愛のないことばかりやることになる。
映画に出てくるようなドラマチックな出来事など、現実の世界ではほとんど生起しない。

何も特別なことはなかったという「教訓」をもって、数ヶ月の「隠れ家」生活を終え西荻に戻っていく。
確かに、北尾トロさんという存在はそこで一度リフレッシュ、再起動されたのかもしれない。

しかし読み終わって、感じることは…。

「諸関係と断絶した世界で結局トロさんがやることは、知らない世界で新しい関係を一生懸命作ろうとするのはなぜ?」という「?」なのだ。

そんなの「それが人間だ!」が1つの答えにはなるが、いわゆる循環論法でしかないようにも感じる。

それにしても「?????」!

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