サンデル先生、アメリカはなぜ日本に原爆を落としたのですか?

ほろ酔い加減でNHKサンデル先生の「究極の選択」という番組を眺めている。

ボストン、上海、東京の学生や作家、女優、経営者などがネットを通じてリアルタイムに参加するアメリカ流の講義だった。
自然科学とは違い社会科学のテーマには決まりきった結論など無いのだよ、深くそれを考えてみることが大切なのだよ、という最終的には「サンデルさんはどう考えているの?」ということがわからない講義だった。
ジャパネットの社長も出ていたので微笑ましく見ていたのですが、扱っているテーマはけっこうシビアなものでした。

テーマは、「震災で明らかになった個人主義と公共精神の問題」「人間は原子力とどう関わるべきか?」「グローバルな共感・連帯感」などでした。

原発問題についてサンデル先生は、「科学技術の進歩を信じて危険な原発との共存を図るか?」「生活の利便を犠牲にしても原発は廃止すべきか?」という2つの選択肢を使って学生たちの意見を探っていました。

上海、東京の学生たちの意見はほぼ半々に意見が分かれたが、対してアメリカの学生たちは全て前者の立場(リスクを管理して原発推進)だった。

この結果を見て、結局アメリカ人は西洋人で中国・日本人は東洋人なんだということを考えてしまいました。
アメリカはたくさんの人種が集まった文字通りの「合衆国」で一人一人の多様な意見を尊重する国だが、基本的には「進歩的楽観主義」という同じ前提の上でモノを考えているのではないか?
つまり、小生としては人類の歴史には、退歩とか後戻りということがあってもいいと思うのだが、フロンティア精神が建国以来のよりどころであるアメリカでは、進歩や開拓が全てに優先する価値前提となっているのだろう。

戦後日本の高度成長は、アメリカの後継があって始めて可能になった。
いくら感謝しても感謝しすぎといえないくらい、日本はアメリカに世話になってきている(基地問題などの悲劇は未解決ですが)。

しかし、日本がこのままアメリカ流の進歩至上主義をそのまま無批判に受け入れていると、大震災で表明されたような日本人の良さもいつの間にか消えていくことをつい危惧してしまうのだ。
この意味で「小泉構造改革」なるものには、成長時代の末期に哲学も固有の理念もなく戦後の流れをそのまま追認したに過ぎないのだろう。

「究極の選択」というなら、ぜひサンデル先生にこんなことを聞いてみたいと思った。

「どちらか一つにしか使えないなら、戦争を終わらせるためにドイツと日本、どちらに原爆を落としますか?」

かつてアメリカが選択したのは、ヨーロッパではなく東洋の国・日本だった。
人類史上唯一アメリカは原発を使い、人類史上唯一日本はその悲劇を蒙ったのだ。

聞いてみたい、「サンデル先生、アメリカはなぜ日本に原爆を落としたのですか?」

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