先週に続き、朝活というものに参加してみました。

朝活2回目。雨模様なので街の人手は少ない。散歩の人もいない。「緊急事態宣言」の影響もあるのか?

車の道中、元百均の店舗をフィットネスジムに改装中の建物を見かける。
壁面には巨大なQRコードが張られている。
なかなかいい使い方ですね、と少し刺激を受ける。

そんなこともあり、今日の朝活ではFileMakerを使ったQRコードジェネレーターで遊んでみた。

仕組みはGoogleで生成したQRコードをWebビューアーに読み込むだけのシンプルなもの。
文系人間にはこの程度のことしかできない(笑。

まず自分の名前をQR化しスマホのリーダーで試してみる。
これはあっさりと名前が読み取れた。
次に「古池や…」の芭蕉の俳句をやってみたが、これもたやすくOK。

それじゃ長文や漢詩ならどうだろうと、「祇園精舎の鐘の声…」と杜甫の「春望」にチャレンジ(と言っても私が何か頑張るというものでもないが)

祇園精舎の鐘の声…

杜甫の「春望」

FileMakerから生成されたQRをスマホのリーダーで読んでみると、これらも正確に読み取ってくれた。

特に「春望」も下記のように難しい漢字や改行も正確に読み取ってくれて少し感動。恐るべしQRコード!

国破山河在
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵萬金
白頭掻更短
渾欲不勝簪

いたいけな文系人間は、これ(QRコード)はもっともっと便利な使い方があるかも!とほくそ笑むのでした!

「かつて経験したことない」…そんなの僕らの周りでは昔からあるんだよ、あんた達のおかげで。

牛や馬は蚊が飛んでくて体にまとわりつけば尻尾で追い払う。猫はゴキブリなど動くものに反応し、この時期は外でセミを取ってきて誇らしげに私に見せてくれる。しばらく遊んで、哀れにもセミが動かかなくなれば途端に興味を失う。

しかし動物たちは、電磁波や科学の力で蚊やゴキブリにバリアを張って環境から締め出してしまったり、ネオニコチノイド等という兵器で相手を根絶やしにすることをしない。技術や知恵がないからそれができないと人間目線から動物をさげすむのではなく、「知足」と「過剰」を本能的に知っている彼らの知恵とみるべきではないかと思う。

生き物の中で人間だけが「過剰」な行為を繰り返し、「かつて経験したことがない」ことが頻発する今の現実を創り出してしまったのだと思う。

雨が降り続き、温暖化により大規模な山火事が頻発し、溶け続ける永久凍土からは未知のウイルスが溶けだす。
産業革命後の近代科学技術は、人間の過剰な行為の影響度(深刻度)を飛躍的に増大させ、ついにその矛先は時に同じ人間に向かう事にもなる。ユダヤ人とかイスラム教徒とか、敵対民族などという名目で。民族同士の掃討は今でも世界の各地で終わらない。

蚊やゴキブリから見ると「かつて経験したことない」事態はかなり前から発生していたに違いない。

原因は、快適さや贅沢を求める人間の過剰な行為だ。

「何をいまさら、すべてあんたたちがやったことではないか!」といったところではないか!?

「そんなの僕らの周りでは昔からあるんだよ、あんた達のおかげで!」と動物たちは言っているように思う。

#キツネのチャランケ #ヒグマと老漁師

朝活というものに参加してみました。

今日から始まった、コワーキングスペース・マーキュリー倶楽部の朝活というものに参加してみました。

まず自分の普段の生活を整理してみると。

朝4時前に起床(というより目が覚めてしまう)。TVで「暴れん坊将軍」を見て、今日も滞りなく悪を退治する吉宗様に俗な安ど感をいただきいつの間にか二度寝。7:45にセットしてあるスマホの目覚ましで何とか起床し、8時ちょうどにお袋が作ってくれる朝飯を食べる。この段階ではまだ体が目覚めていないので、半ばもうろうとしながら何とかかき込む。味もよくわからない。後は持病の薬をきちんと飲んで、8:45頃家を出て、9時過ぎに会社について何となく一日が始まる。

そんなところですが、朝活なるものに敢えて今日は挑戦してみました。

5時に起床。準備を整えて会場へ。
普段走り慣れている道路もいつもと違う感覚。まず太陽がまぶしい。榛名山がいつもと違う色に見える。

「榛名ってこんなに緑色してるんだ!?やっぱり木や草がたくさん生えているんだ!」と、あたりまえの事実を感じる。6時前の道には、子犬と一緒にゆっくりゆっくり歩いているご老人や子供と自転車をこいでいるママさん、散歩中のお友達風の2人など、朝の陽光のなかで皆輝いて見えました。

「みんな、それぞれの朝活やっているんだ!」と改めて実感。

普段の惰性的な時間の使い方を少し反省しつつ、毎朝6時に起きて散歩や体操を済ませお腹を空かせてから朝飯を食べる自分の姿を想像してみる。

「じゃ、俺今日の朝活で何やろうか?」と思ったとき、愛読書でもまた読むかくらいのことしか思いつかずとりあえず「気流の鳴る音」を持参しました。

愛読書とはいえ最近は寝る直前に開いて1ページも読まないいうちに寝落ちしているので、少しは新鮮な頭で読んでみようと思った次第。

入浴中も読むのでカバーがぼろぼろになってます。

和食と洋食がある朝食バイキングのチケット

西上州方面の山でしょうか

こちらは赤城。まさにすそ野は長し、ですね。

さて、少しはお腹すかせて朝食バイキングを食べることはできるのでしょうか?

寝落ちせずに「序 共同体のかなたへ」を40ページほど読み終えたので、朝飯食いに行ってきます。

はてさて、その味わいは如何?

こんな洋食食べて、薬をきちんと飲み朝活終了!

朝牛乳を飲むのは何気に体によさそうです

第2クール半沢直樹、歌舞伎と同じ!? あまり面白くないのですが!

「成田屋の 睨みが効かぬ 夜の街」

市川海老蔵がやんちゃの果てにきつくしばかれた例の事件を受けて、しばらく前にこんな川柳があったと思う。
はじめて聞いた時、「うまい!」と思った。
「自分は人間国宝の家柄だから一生食いっパグレはない、それに比べてお前ら下々は惨めなものだよね~」などと酔った勢いで見栄を切り、タバコの灰皿に注いだ酒を飲ませようとした海老蔵。
尊大で失礼な海老蔵に切れてボコボコにしてしまったチンピラの一人。

その後、市川家と件のチンピラ一党とは手打ちがなされ、世間の中耳は事件を忘却の彼方に流してしまった。

海老蔵はその後、不治の病でこの世を去った妻への献身的姿勢や良きパパ振りばかりがマスコミに流され、いわゆる「いい人」の評価が定まってしまった。老いも若きも、歌舞伎という日本の伝統芸を担う家柄の話題に対し概ね好意的な評価をしていると思う。

これは根本的におかしいと思うのだが、「海老蔵は本質的に変わったのか?」「現代における歌舞伎の本質的価値如何?」などとは誰も言わないので、【小言じじい】としてはブログの枕としてひと言述べておきたい。国宝を認定する文化庁の役人なども、歌舞伎の現代的価値直などこれっぽっちも理解していない(と思う)。

閑話休題
久しぶりにブログを書こうとしたのは、半沢直樹と日本の伝統芸・歌舞伎の関係であった。

半沢直樹の第2クールが第7話までは終了した。

第7話では帝国航空の債権放棄スキームで融資銀行団をまとめ、政治的成果を誇示しようとしたちんけな国交大臣(?)が半沢にしてやられるという話で、それなりに留飲を下げることができた。
第2クールの各話も、概ね視聴者の評価は高く圧倒的な視聴率高さがそれを物語っている。

しかし、

歌舞伎由来の見栄と顔芸が目立つばかりで、「面白くない!」というのが、小言偏屈じじいの率直な感想なのだ!
何年か前の第1クールの時は、日曜の夜が待ち遠しく、一話が終わるたびに熱狂的にブログを書いていたのだが、今はその熱がない。

再び閑話休題

現代の日本人で歌舞伎をはじめとする伝統芸の、歴史的背景や芸術的価値を正しく理解したうえで楽しめている人がどのくらいいるのだろうか?
以前、日本の伝統芸を研究するために日本の大学に留学し、卒業後も日本各地を放浪しているイギリス人と話をしたことがあるが、日本や日本文化への愛着、理解度において全く歯が立たなかった経験をしたことがある。現代日本人は、古典落語を聞いてもその機微を理解できないのではないか、もちろん私もわからない。
これを「情けない」と思うか「日本文化の普遍性のなさ」とコスモポリタン的にやり過ごすか、私自身は後者だったように思う。

話しはあちこちそれるが、半沢直樹が受けているのは、半沢や大和田常務など、およそ現実にはいないだろうと思う登場人物たちよる大げさな顔芸と話芸に尽きるのではないか?ということ。
これは、歌舞伎のクライマックスで「見栄を切る」「睨みを効かす」場面と基本的な構図は同じで、半沢らは現代の銀行というシーンで歌舞伎をやっているのではないかと思うのだ。

そう考えてみると、大和田とか黒崎など脇を固める俳優が歌舞伎関係の人であることもうなづける。

第2クールの半沢直樹をつまらない、と感じるのは「これは歌舞伎の現代版だ!」ということに気がついてしまったことによるものかもしれないと思うのだ。だったら歌舞伎そのもののほうがもっと面白いのではないか、などとも思う。

NHK2チャンで放送している歌舞伎中継も、シテとかワキとかが展開する現代人には全く理解できないダイアローグや、見栄、睨みの背景を辛抱強く説明してくれれば、理解が深まり面白く感じることができるのではないかと感じた次第。

細かいストーリーの整合性を抜きにして、来週からは歌舞伎として半沢直樹を見ようと思う。

歌舞伎も半沢直樹のように鑑賞してみようと思う。

賭けマージャン問題などで職を辞してはいけない! 官邸の闇に一太刀を!

賭けマージャン問題などで職を辞してはいけない!
 
官邸の闇に一太刀浴びせてから潔くやめてほしい!
 
国民無視の忖度と自己保身が渦巻いている永田町で、「政治家にとって一番使える男」として活躍してきたのだから、闇の本質をよく知っているはず。
 
与党も野党も「やめろ!」の大合唱。立場は違えど、まるで寄ってたかって黒川問題を賭けマージャンで終わりにしようとしている感がある。
 
それにしてもマージャン相手が官邸からもっとも煙たがられている朝日新聞の元記者だというのは、どういう構図なのだろう。
「面白い」ともいえるし、その裏をさらに勘ぐってみたくもなる。
 
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20200520-00000563-nnn-soci

「人柄が信用できない」といわれ、それでも我が道を行く安倍首相。

「個別の世論調査の結果に一喜一憂しない」…いつの時代でも内閣官房長官が会見で使う常とう台詞だ。
 
確かに内閣を「支持しない」が「支持する」を上回ったところで、面の皮の厚い連中にはまさに「カエルの面に何とか」なのだろう。
 
全てを確かめたわけではないが、ほとんどの調査で安倍内閣を支持しない理由の第一に「人柄が信用できないから」がきて、「他に適任がいない」「政策に期待ができない」が続く。
 
今の時代、ほとんどの政策は官僚様が作り「政治のリーダーシップ」は幻想なのだから、政策立案能力を政治家たちに期待しているわけではない。
しかし、せめて人柄、人間性くらいは範となる期待を国民は持っているが、安倍首相にはそれさえ期待できない、と多くの人は感じている。それが多くの世論調査結果の背景にはあるのだろう。
 
コロナのどさくさに紛れ、検察介入という身内びいきの自己防衛政策をごり押ししようとしている安倍内閣は、事ここに及んで「検察人事はもともと法務省の提案だ」という新説(言い訳)を弄し始めている。
 
結局のところ件の法案は今国会でのごり押しは無理、という政治判断に至ったが、「法務省の提案」説は、またもや忖度好きのお友達・取り巻きから吹き込まれた嘘八百なのだろう。
 
【検察がまともなら安倍さんはすでに3度逮捕されている】という夕刊紙の見出しを、あながち東スポ的な針小棒大妄想とは否定できない心持になってしまった。
 
「人柄が信用できない」などと言われたら、私ならショックで寝込むだろう。その意味では、安部さんは大したものである。

はまりつつあります、「いいね! 光源氏くん」(笑)

久しぶりの自社ブログ。

ここのところFaceBook中心の発信でしたが、知人関係にあまねく知られてしまうと少し恥ずかしい話題は、アクセスの少ないこちらのブログに書いておきます(笑)。

最近少しはまり気味の「いいね! 光源氏くん」

しかし、夜11:30の放送時間を待ち構えて欠かさず見ているわけではなく、深夜にふと目が覚めるとつけっぱなしのTVがだいたい再放送をやっているのでつい見てしまう、というパターンです。

何にはまっているかというと、源氏物語の主人公が時空を超えて現代に迷い込むという荒唐無稽な筋書きではありません。

時期はかぶっていますが、「アシガール」という光源氏とは逆に現代のJKが戦国時代にタイムスリップしてしまうドラマもありますが、こちらには筋書きも女優さんにも特に特別な印象を持ちませんが、光源氏くんで伊藤沙莉(いとうさいり)さんという女優さんが演じる「沙織殿」に、もしくは伊藤沙莉さんという女優さんそのものに言いようのないい魅力を感じてしまうです。

この伊藤沙莉さん、子役出身の演技派だそうでおなじNHKの朝ドラ「ひよっこ」にも出ていたそうですが、光源氏くんを見るまでまったく知りませんでした。

いわゆる美人ではありません。

少し前に相席スタートの山崎ケイさんが流行らせた「ちょうどいいブス」というフレーズがありましたが、男の心理の機微をうまくとらえていて感心していました。

伊藤さんは全然ブスではないと思います。どちらかというと美人だと思います。

しかし、井川遥とか北川景子などの高嶺の花のような「飛び切りの美人」ではなく、私にとっては「ちょうどいい美人」なのです。

容姿の話題は天に唾して自分に落ちてくることは重々承知していますが、「ちょうどいい美人」をこれからも応援しようと思います。

GAFAだ、アメリカだ、中国だ!バカバカしい争いは破滅まで終わらない!?

私の会社が経営しているSomethin’ Elseは、「日経Office Pass」というサービスの提携スペースとなっていて、会員企業のユーザーはスマートフォンのコードを提示するだけで利用することができます。

この「日経Office Pass」サービスをサポートしている会社が株式会社OPT Incubate(オプトインキュベート)ですが、創業者が先ごろ上梓されたという書籍を送ってくれました。

「GAFAに克つデジタルシフト」という本なので、少し真面目に目を通してみようかと。

書名から察するところ、どんな業界の会社もデジタルシフトして人材を育てないとGAFAや中国BAT(バイドゥ、アリババ、テンセント)に飲み込まれる日がやってくるぞ!という経営者向けの警鐘本のようです。

経済的な状況認識としてはその通りだと思うし、日本企業のデジタルシフトは確かに遅れていると思います。

しかしながら、プラットフォームの主人公をめざしなりふり構わず戦っているGAFAやBAT、それを追いかけるSBなどの日本勢がやっていることは、1企業のサスティナビリティには沿っていても、地球や人類の継続可能性からみるとはたしていかがなものなのでしょうか?

アメリカだ、中国だ、いやイランだと尊敬できないリーダーたちが引っ張っている国レベルのバカバカしい競争にも同じ印象を持ちます。

破滅まで突っ走るしかないのが人間のサガなんですね、やっぱり。

昔マルクスという人は、「資本は自己増殖する」と資本や商品の貪欲さを言い現わしましたが、自己増殖の行きつく先は、すべての破滅が待っている、そんな憂鬱な気分にもなるこの頃。
自分の足を食べて空腹を満たすタコのようなものですかね、人間を人間の経済というやつは。

私が与したいのは、この程度のナショナリズムなのです。

頑張れ日本ラグビー!決勝まで行くぞ!(笑)

改めて思う、「心ある道」のこと。

アイフルという会社があります。高利貸のがめつい、京都のあのサラ金会社ですね。

この会社のCMに大地真央さん扮する老舗料亭の女将風情が、「そこに愛はあるんか?」と厳しい口調で弟子の板前を問い詰めるシーンがあります。

この会社が事業をやるとき、なにがしかの意思決定がされるとき、さらには社員一人一人が何かの行動を起こすとき、常に「そこに愛があるんか?」が指針や拠り所になっているとしたら、とてつもなく素晴らしい会社だと思います。CMがホントならばね。

しかし、想像するにおそらく、「そんなことはこれっぽっちもない」が真相だと思います。
ただ単に、アイフル(愛がいっぱい)というCMコピーライターの安易な連想から生まれた薄っぺらな宣伝文句なのでしょう。

私は宝塚のことはよく知りませんが、10代のころから努力を重ねて歌や踊り、お芝居などの芸を磨いてスターになった女性のイメージがあり「皆すごいなあ」と単純に思っていました。しかし、このCM一つで大地真央さんという人が嫌いになってしまいました。

仕事を受けるとき「筋」を大切にしないと!
ここでいう「筋」とは、クライアントの実態、宣伝コンセプトとの相性や乖離、自分がその仕事をやることの価値づけなどですが、大地さんが吐く「そこに愛があるんか?」というあの言葉は、彼女のステータスを極限まで傷つけていると思えてなりません。
おそらく、当の社員さんたちも「そんなつもりは毛頭…」と冷や汗を流すようなCMなのではないでしょうか?

閑話休題

全く関係ない話の枕になってしまいました。
実はこの久しぶりのブログは、「心ある道」のことを考えてみようと書き始めたのでした。

カルロス・カスタネダや彼の師匠・アメリカ先住民ドン・ファンの物語は、1970年代に大ブームとなり、世にあらがう学生や世界を放浪する自分探しの青年、ヒッピーたちの教科書のような存在でした。少し遅れて70年代から80年代にかけて、とっぽいというしかない学生時代を過ごすことになった私も、真木悠介さんの「気流の鳴る音」を入り口に呪術師シリーズを読んだものです。結構真面目に!

カスタネダの著作は、結論がすぐそこに書いてある論文のような構成ではなく、師匠と弟子の対話やかかわりの中でカスタネダ本人が「近代」や「明晰の罠」から解放されていく過程が描かれているので、読むことだけで結構忍耐力が必要でした。そして、そんな本たちは今でも自宅や会社の本棚に置かれています。売られることも捨てられることもなく。

還暦を過ぎ数年、改めて自分の「落とし前」をつけるべきタイミングに思うことは、結局のところ「心ある道」の一言に尽きるのではないか、というような心境になりつつあるのです。

「そこに心はあったのか?」と過去を振り返っても今更詮無いことですが、少なくてもこれから死ぬまでは、常に「そこに心はあるんか?」を問いながら選択し、進んでいきたいと思います。

どこかのゴールにたどり着くこと、結果にだけ価値があるという「意味への疎外」に陥ることなく、その道のりに「心のありか」を問うていくような生き方をしたいと思います。

なんだか「青年の主張」のような締めになりましたが、考えても考えてもそれしかないと思います。

どこに続くかわからないこの道のりを、心満たして歩みつくすこと。

それしかない!いやそれしかなかった!