月別アーカイブ: 2011年4月

可愛そうな言葉、「想定外」考。

大地震、津波、今も続いている原発事故。

原発は小康状態が続いているが、根本対策が施されない中で、これから未来永劫に渉って日本はあの魔物に水を注ぎ続ける不毛な作業を強いられるのか?
これじゃまるで、掘った穴を埋めさせてまた隣に別の穴を掘らせると言う、あのナチの拷問のようではないか?
人間は、触れてはならない魔物を得意げに手にしてしまったんだなあ、とつくづく思う。

一連の事象説明の中で、特に原発事故の説明に「想定外」という言葉がよく使われる。

この「想定」という言葉は、しばらく前にワールドカップに臨む日本代表のビッグマウスもよく使っていた。
ビッグマウスが使ったのは、「想定外」ではなく「想定の範囲内」という言葉だったが。

WCは結果マズマズだったので、「想定の範囲内」といっていたプレイヤーに「さすが××、よく状況が見えている」と賞賛が集まる結果になったが、今「想定外」といっている人たちに対しては、厳しい非難が集中している。

「必要なものだから我慢してください」といわれ原発を強いられ、今、強制的ないし計画的に避難しろといわれている近隣の住民にとって、「想定外」という言葉を聞いただけで眉につばをつけたくなるのもよくわかる。
「いろんな可能性を想定し、考えられることについてさまざまな安全策を施しているから大丈夫」といってきたのは、今想定外といっているあんたたちではないか!、ふざけんな!、言い訳言う前に原発止めろ!、というわけだ。
しごく当たり前のことだ。

つまり、今この状況において使われる

「想定外」は、身勝手な責任逃れ

でしかない。

そもそも、この状況で想定外という言葉の使い方そのものが正しいのかどうか?、という根本的な疑問もある。

巨大な津波に対して原発は無防備である、動力として必要な電力が止まったら原子炉は崩壊する、その危険性はこれまで言われてきたことで、国会議員のセンセたちでさえ数年前に国会で議論していたことではなかったか?

つまり、

「想定外」は言い訳にさえならない

のだろう。

迷走を続ける政治が「想定外」の力を発揮して事故を収拾し、福島以降の見識あるエネルギー政策を提案してくれるのは、一体いつのことになるのか?

菅政権に、

「想定外」のリーダーシップ

を期待したいのだが、はてさて…。

「想定外」はいつのまにか

可愛そうな言葉

になってしまったものだ。

キャンディーズのスーちゃんが死んじゃった!

元キャンディーズ・スーちゃんの突然の訃報!
「何で?」というのが第一の実感。
55歳で乳がんだったとのこと。

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/obituary/?1303394209

キャンディーズといえば、とっぽい悪がきだった頃(16、7才の頃?)、地元デパートの屋上にキャンペーンを見に行ったことを思い出します。
駆け出しのアイドルは、まずデパートの屋上で箱の即席ステージに立って歌い、にきび面の田舎モノが授業をさぼってそれを見に行く、そんな時代でした。

デビュー当時はランちゃんではなくスーちゃんがメインボーカルで、3人の真ん中にいました。
ランちゃんやミキちゃんはやせ過ぎていて、何となく痛々しい感じがしましたが、素人感覚で見るとスーちゃんはちょうどいい太り具合をしてました。
下町の釣堀屋さんの娘とかで、美人じゃないけど垢抜けないあどけなさが魅力の少女でした。

曲名は忘れましたが、「赤い屋根の時計台」がどうしたとか、サビで「私はあなたが好きでした~」という曲があり、何となく石川ひとみ「待ちぶせ」路線の歌でけっこう気に入ってました。

「普通の女の子」になった後、芸能界に復帰し女優としても高く評価されてたようですね。

ご冥福をお祈りいたします。合掌!

サンデル先生、アメリカはなぜ日本に原爆を落としたのですか?

ほろ酔い加減でNHKサンデル先生の「究極の選択」という番組を眺めている。

ボストン、上海、東京の学生や作家、女優、経営者などがネットを通じてリアルタイムに参加するアメリカ流の講義だった。
自然科学とは違い社会科学のテーマには決まりきった結論など無いのだよ、深くそれを考えてみることが大切なのだよ、という最終的には「サンデルさんはどう考えているの?」ということがわからない講義だった。
ジャパネットの社長も出ていたので微笑ましく見ていたのですが、扱っているテーマはけっこうシビアなものでした。

テーマは、「震災で明らかになった個人主義と公共精神の問題」「人間は原子力とどう関わるべきか?」「グローバルな共感・連帯感」などでした。

原発問題についてサンデル先生は、「科学技術の進歩を信じて危険な原発との共存を図るか?」「生活の利便を犠牲にしても原発は廃止すべきか?」という2つの選択肢を使って学生たちの意見を探っていました。

上海、東京の学生たちの意見はほぼ半々に意見が分かれたが、対してアメリカの学生たちは全て前者の立場(リスクを管理して原発推進)だった。

この結果を見て、結局アメリカ人は西洋人で中国・日本人は東洋人なんだということを考えてしまいました。
アメリカはたくさんの人種が集まった文字通りの「合衆国」で一人一人の多様な意見を尊重する国だが、基本的には「進歩的楽観主義」という同じ前提の上でモノを考えているのではないか?
つまり、小生としては人類の歴史には、退歩とか後戻りということがあってもいいと思うのだが、フロンティア精神が建国以来のよりどころであるアメリカでは、進歩や開拓が全てに優先する価値前提となっているのだろう。

戦後日本の高度成長は、アメリカの後継があって始めて可能になった。
いくら感謝しても感謝しすぎといえないくらい、日本はアメリカに世話になってきている(基地問題などの悲劇は未解決ですが)。

しかし、日本がこのままアメリカ流の進歩至上主義をそのまま無批判に受け入れていると、大震災で表明されたような日本人の良さもいつの間にか消えていくことをつい危惧してしまうのだ。
この意味で「小泉構造改革」なるものには、成長時代の末期に哲学も固有の理念もなく戦後の流れをそのまま追認したに過ぎないのだろう。

「究極の選択」というなら、ぜひサンデル先生にこんなことを聞いてみたいと思った。

「どちらか一つにしか使えないなら、戦争を終わらせるためにドイツと日本、どちらに原爆を落としますか?」

かつてアメリカが選択したのは、ヨーロッパではなく東洋の国・日本だった。
人類史上唯一アメリカは原発を使い、人類史上唯一日本はその悲劇を蒙ったのだ。

聞いてみたい、「サンデル先生、アメリカはなぜ日本に原爆を落としたのですか?」

田中正造とタナカリューサク … ン???

仕事半分、飲み会半分で栃木の佐野へ。
両毛線がきちんと動いているか確かめず、少し時間に余裕を見て出発。

結局何のこともなく順調に佐野に着き、時間にけっこう余裕が出来てしまった。

さてと…、とりあえず徒歩数分の佐野市役所に行って案内嬢に聞いてみると、佐野厄除け大師が徒歩10分くらいのところにあるという。
初詣の頃よく耳にする名前なので、「何はともあれ一度行っておくか」と大師へトコトコ。

なんでもない日だったが、参詣者が数十人いました。
日本の厄払いをしようと流儀に沿ってお釈迦様の像に霊水(?)をかけて鐘を一打ちし、大震災で被害をこうむった方々に深く鎮魂のお祈りをしました。

たくさん吊るされた絵馬を見てみると、志望校合格などの願いとともに「東日本で災害にあわれた方へ」とか「早く安心して暮らせる日本に…」など、時節柄の内容が目立ちました。

佐野厄除け大師にある田中正造墓碑

大師の一角に田中正造の墓碑があり、傍らに石川啄木の歌碑がありました。
生涯を通して足尾鉱毒事件に取り組んだ正造の遺骨は、ここを含む5箇所のゆかりの地に分骨されているそうで、佐野市の博物館に正造関連の展示もあるとのこと。

博物館は大師から歩いて10分程度のところにあるので、ついでに足を伸ばしてみました。

田中正造については高校日本史程度の知識しか有りませんでしたが、博物館で生涯を紹介したビデオも見て「立派な人だったんだな!」と改めて思いました。

明治の中ごろ、古河銅山が垂れ流す鉱毒で流域が汚染され、渡良瀬川の洪水で一気に汚染地域が広がり大きな社会問題となっていました。
張本人の古河家や当時の栃木県令との幾度に渉る交渉、何百回にもわたる国会質問でも有効な策

佐野市博物館入り口の正造像

が打たれない状況の中で、正造は完全と国会議員を辞し、幸徳秋水が書いた「謹奏」という直訴状を持って明治天皇の馬車の前に躍り出たそうです。
その後も、鉱毒事件の象徴・谷中村で抵抗を続けた正造は、大正2年に73歳でなくなるまで生涯を通じて鉱毒問題の解決に奔走したそうです。

ここで、つい時節柄、福島原発に思いを馳せることになります。

問題解決能力のない当事者(東京電力)、あてにならない時の政府(菅内閣)、苦しい避難生活を続ける福島県民…。

してみると、今このときに平成の田中正造が現れるのではないか?、などと淡い期待をつい抱いてしまいます。

東電の記者会見において、具にも付かないような馴れ合い質問をするマスコミ記者がいるなかで、被災民サイドに立って大声できつい質問をする日本インターネット新聞の記者に「タナカリューサク」さんという人がいます。
昨日も東電社長の会見でも、いい意味で空気を読まずに大きな声で清水社長に詰め寄っていました。

田中正造とタナカリューサク、調べてませんがおそらく何の縁もない二人だと思いますが、佐野の町を歩きながら今の時代を考えてみるのでした。

宮台真司、福島原発、震災復興…

弁舌における説得力が魅力でも、彼の著書を読んでみるとほとんど理解できないという人はいるもので、小生にとっては宮台真司がその一人でした。
ラジオ・TVのニュース解説や討論番組での彼の言葉を聴いていると、鋭く本質を穿った解説や水掛け論に陥ることなく論敵を負かしていく頭のよさに、少しばかりの嫉妬を感じながら感心してきたものです。
しかしながら、本来の専門分野(社会学)である彼の著書に挑戦してみても言いたいことがさっぱりわからない。
むかし浅田彰がブームになったときに、膝をたたいて「なるほど!」と夢中になったようなMyブームはついぞやってきませんでした。

そんなわけで「どうせ途中でアバンダンするだろう」と思いながら買い込んだ「日本の難点」(幻冬舎新書)を我慢しながら呼んでいると、原発についての話が出てきた。

200ページあたりを引用すると…

「今日の高度技術社会が孕むリスクは、事象ごとの発生確率を…ベイズ統計のような手法で対処可能な常識的なものとは違い、(事前の)予測不能・(目下の)計測不能・(事後の)収拾不能という性質に、特徴があります。

原子力発電所について、事故の発生確率はこれこれで、想定される周辺汚染はこれこれだから、こうした対策で十分だ、といった説明は、基本的にお為ごかしだということです。」

とある。

まさにこれは、大きな犠牲を払いながら今の日本が経験していることですね。

そんなことを考えながらTVを見てたらNHK解説委員の山崎さんが、東電や政府の言い訳の中に必ず「今回の地震と津波は想定外」という枕詞があるが、「事態がここまで大きくなった今では『想定外』という言葉に何の意味もないし避難住民は聞く耳を持たないでしょう。言うべきではない」と、NHKらしからぬラディカルなことを言ってました。

コントロール不能の原発やサブプライムローンのように崩壊まで暴走を続ける金融資本主義の根っこは同じで、今の世界は予測も計測も収拾も不可能なアーキテクチャーの上に乗っていて、人間はもうそこから逃げることは出来ないと宮台さんは言います。

それじゃ一体どうしたらいいのか、お先真っ暗じゃないかと思うのですが、宮台さんがここで持ち出すのが「共同体的自己決定」「市民政治」という概念です。

「統治権力における政治的決定に先立ち、顔の見える共同体の範囲で自分たちがどうするかを決めるのです。」(201ページ)

「共同体的自己決定」とはどういう決定のメカニズムなのか?
宮台さんは「他の共同体に迷惑をかけない(権利を侵害しない)範囲での自己決定の自由」と「(権利の侵害の範囲についての)共同体間での鬩ぎ合い」が、共同体的自己決定の2つの側面だといい、そうした決定を成員の成熟に期待しているようです。

わかったようなわからないような、そんなこと実際可能なの?、といった感じですが、今回の大震災からの復興が具体化する中で、大きな統治権力(政府・国家)は「復興構想会議」なるものを組織するとか言ってますがまったくその動きが見えない中で、被災地自治体とそれを支援する自治体、民間団体との関係で、この「共同体的自己決定」が実際は行われ行われているのではないか、と痛感もするのでした。

震災対応で見られた「強さ」と「やさしさ」を備え、政治的にも「成熟」した市民が、この「共同体的自己決定」の主役になる、そんなことは絵に描いた餅に過ぎない幻想なのでしょうか?

「暴走」する福島原発

大地震が起こり巨大な津波が発生する。
地震国、海洋国家の日本では、歴史的に数多くの巨大な自然災害が発生してきた。

施設が損傷を受け暴走が始まれば手に負えなくなる原発だから、そうした自然災害への備えや万が一事故が発生したときのリスクマネジメントが徹底している、つまり「原発は100%安全」のはずだった。
少なくとも、政府や電力会社はそう説明してきた。
その中で、反対派や慎重派は「非科学的で時代遅れの素人」という扱いを受けてきた。

30数年ほど前に仙台にいたとき、学生新聞の編集活動にかかわり、女川(おながわ)の反原発運動に共感を覚えたことがある。
新聞でも何回か原発問題を取り上げ、当時大学の原子核工学科におられた小出裕章さんに寄稿していただいたこともある。

その後30年の間に東海村や柏崎での出来事もあったが、なんとなく「日本の原発では小さな事故はあっても、危機的な状況にはならない」、「日本は科学技術立国なのだから大丈夫」などと漠然と思い込むようになってしまっていた。
つまり、いつの間にか政府や電力会社のいうまやかしに誤魔化され、ものを考えない愚民となっていたのだ。

小出さんは今でも警告を続けている。
その声を聞いて、少しはまともにものを考えるようにしよう。

談合坂SAでB級グルメ・鳥もつ煮を…

仕事で山梨へ行った帰り、談合坂SAで鳥もつ煮を買ってきました。

最初はお土産はWINEと決めていたのですが、何とWINEは注文販売。
つまり、その場で持ち帰ることが出来ません。
飲酒運転防止の対策かもしれませんが、注文販売となると送料、クール代などが別途かかることになり、けっこう高いものになってしまいます。

別に帰りの車内で飲むつもりもないので「そりゃないよ!」と思いましたが、仕方なく「談合坂バームクーヘン」に「甲州ワインパイ」、それと甲府名物のB級グルメ「鳥もつ煮」を買い込んできました。

2つのお菓子はどこにでもあるような味で、夕食後の娘どもの胃袋にぺろりと収まりました。

1パックにキンカンが2つ。少しグロテスクな感じですが、味はいい!

鳥もつ煮は、さすがにいいお味でビール、焼酎と一緒にわが胃袋にズシリと収まりました。
レバー、砂肝も美味しかったですが、中でもキンカンがとても美味しく感じました。

普段の生活ではキンカンなどめったに食べません。
まして、それを「うまい」などと思ったこともなく、どちらかといえば敬遠してきた嫌いがあります。

はじめてキンカンの美味しさに触れ、満足感とともにここちよい眠りに落ちました。

朝起きて福島原発の漏水も収まったことを知り、天気もいいので久しぶりにさわやかな気持ちになりました。

やれやれ、やっと止まったか!

福島原発から垂れ流し状態が続いていた高濃度の放射能汚染水。
6日早朝にようやく止まったとの速報があった。
この邪悪な水に対し、東電はここ数日「コンクリ固め作戦」「ポリマー&おがくず・新聞紙作戦」など、ハイテク・ローテクを駆使して対応してきたが効果がなかった。
その間も汚染水は流れ続け、全世界に対し日本の問題解決能力のなさが発信され続けてきたが、基礎地盤の砕石部分にガラス質の物質を注入する作戦がようやく一定の効果をあげた。

「やれやれ!」というのがまず最初の実感。
現場の作業員さんや福島県民も、ひとまずの安堵感を感じていることだろう。

しかし、そもそもなぜ高濃度の汚染水がたまるのかの原因は特定されていない。
原子炉冷却のため今後も大量の放水が必要で、たまった水がまた再びどこからか決壊し流れ出すことも考えられる。
「ひとまずの安堵」といっても、長い道のりのほんの一歩前進に過ぎないのだ。

一連の対応で明らかになったことは、東電単独では事故対応も保障対応もまったく力が足りない、ということ。
まさに、日本を挙げての総力対応が必要な国難だということなのだろう。

三木谷さん、柳井さんに続き孫さんも…

東日本大震災からの復興を支援する義捐金は、市民レベルからスポーツ・芸能界、財界まで広範な広がりを見せている。
かくいう小生のような貧乏人も、出来ることはそれなりにやっている。ささやかなものですが。
「額じゃないよ気持ちだよ!」と、照れながら街角募金に100円玉を入れるヤンキーにいちゃんの心意気など、微笑ましい話も聞こえてくる。

そんな中で財界の大物による多額の義捐金拠出があいついで報道された。

楽天の三木谷さん、ユニクロの柳井さんに続き、ソフトバンク総帥・孫正義氏個人の100億円、および役員報酬全額提供、グループ企業で10億円拠出の話を聞いて感じることは、

まず、献金をする財界人の顔ぶれも大きく変わったものだな、ということ。
そして、「あるところにはあるものだな!」と格差社会の現実を改めて実感する、ということ。

鉄鋼・電機・自動車といった旧来の基幹産業の経営者は、トヨタなど創業家が君臨している同族企業以外は基本的にサラリーマン経営者が多い。
サラリーマン経営者は裕福とはいっても個人で100億円は無理だし、部品ひとつ作って何銭の利益という製造業では企業で10億円も困難だろう。
100億円は、一代で築き上げた創業社長だからこそできる荒業だ。

もちろん、「どうせ税金に持っていかれるなら…」という現実的な計算やCM効果も頭にあるだろうが、これらの新興経営者たちに共通することは「決めたことは出来るだけ大胆に行う」戦略であるように思う。

市場やコンセプトを新しく作り、その市場に大胆な戦術を駆使して一気に制圧するものだけが大きな果実を獲得する、今の時代を象徴するような話だと感じた。

被災地の子供が18歳になるまで携帯電話を無償にするという同時に発表された孫氏のアイデアは、市場を一気に制圧するために虎視眈々とチャンスを伺う経営者のしたたかさも感じる。
docomoのサラリーマン経営者にはとてもできない芸当だが、「多額の義捐金もいいけど、SBの通信費を少し安くしろよ」などという僻みも感じてしまうのだ!

小生としてはこれからも、街頭募金に小銭を入れていきたい。